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築90年の木造ホテル

2025.10.9

木枠窓のネジ込み錠を見た瞬間に蘇る
幼少期を過ごした祖父母の家の匂い

JR目黒駅近くにたたずむ古いホテルが休館になると聞いた。そのホテルは90歳の母がかつて結婚式を挙げた場所で、モノクロの結婚写真にもその名が刻印されている。長男が小学生時代に通った塾の卒業記念の会で使われたり、お隣にある芸能事務所に仕事で幾度も訪れたりと、個人的になじみ深い場所でもあった。閉まる前に一度見ておきたいという友人と3人で、休館直前の施設を訪れた。目当ては開催中の企画展だ。

靴を脱いで上がる古い建物

東京都指定有形文化財である木製の階段は、江戸文化に属する豪華な装飾が特徴、と評される。ここで休館直前まで開催されていたのが、「鬼」をテーマにした展示会。
靴を脱いだ足裏で、木製の古い階段の感触を確かめるようにゆっくり上る。各階の和室に入ると現れるのが、かわいい鬼や怖い鬼。展示作品を見るのも楽しいが、母と同じ昭和10年生まれの木造建築の持つ味わいが温かくて、懐かしくて、優しかった。数多の足裏で磨かれてきた木の床の鈍い光。昔過ごしたどこかの記憶にあるような欄干飾り。そして木枠の窓。豪華な装飾に目を奪われる以前に、匂いと手(足)触りが遠い記憶を呼び覚ましてくる。
すっかり忘れていたが、祖父母の家の木枠の窓には、確かにネジ式の鍵がついていた。幼児だった自分がその窓の鍵を開け閉めした感触が右手に蘇る。キリキリと音を立てて閉まって行く過程も、たまにスリガラスに爪があたって嫌な音を立てたことも、その後の鳥肌も、祖母が孫である自分を慰める優しい声も、ほこりと草の混ざったような古い畳の匂いも。それは自分が大事にされていた記憶の時限爆弾。ここに来なければ、思い出す機会がなかったかもしれない、40年以上前に他界した祖母の記憶。
若い作家の「鬼」作品を見ながら、この階段と窓が懐かしいね、と同意し合う中高年3人娘。それぞれのカバンからチラ見えするのは、節分の鬼のお面、なまはげのキーホルダー、『泣いた赤鬼』の絵本。「鬼」モチーフのグッズを持参すればもらえるというポストカードを、しっかりゲットしたことは言うまでもない。

築90年の木造ホテル